やまげん物語
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産声
山源機械工具株式会社は、戦後まもない1948(昭和23)年、「山源商店」として東京都目黒区で産声を上げました。
この年、世界はビルマの独立やイスラエルの建国、ガンジー暗殺など激動の中、日本では国民の一般参賀の開始や戦後初の夏季オリンピックで水泳の古橋広之進選手が大活躍するなど、新しい時代への期待が膨らむ年になりました。美空ひばりさんが歌手デビューしたのもこの年でした。また、東京裁判の判決が出るなど過去の清算が行われた年でもありました。
1948年の
世界の主な出来事
- ・ビルマ(のちのミャンマー)がイギリスから独立
- ・マハトマ・ガンジー暗殺
- ・イスラエル建国
- ・ベルリン封鎖
- ・ロンドンオリンピック開催
- ・ベーブ・ルースが死去
- ・大韓民国建国
- ・朝鮮民主主義人民共和国建国
1948年の
日本の主な出来事
- ・23年ぶりの国民一般参賀
- ・帝銀事件
- ・菊池寛が死去
- ・美空ひばりが歌手デビュー
- ・昭和電工事件
- ・太宰治入水事件
- ・本田技研工業株式会社設立
- ・第2次吉田茂内閣発足
- ・東京裁判結審
創業者 山賀重義
太平洋戦争の終結から1年後、戦地より無事に帰国を果たした山賀重義は、一時期、戦後の「闇市」で生計を立てていました。その中で、先見の明があったのか「これからは工業が発展するに違いない。戦後の復興には工業が絶対に必要なのだ。」と考えるに至り、機械工具商を始めることにしました。後に山源機械工具株式会社となる、山源商店の始まりです。山賀重義は、1922(大正11)年3月、3人兄弟の長男として東京都目黒区に生まれました。
少年期はかなりの暴れん坊で負けず嫌い、一方でとても正義感の強い少年でした。
当時の山賀家はとても貧乏で、勉強したくても本もろくに買うことができず、学校で使う教科書もお姉さんのお下がりを使うほどの有様でした。
そのような環境にもかかわらず、重義少年は人に負けたくない一心でできる限りの勉強をします。その努力が、後に経営者として花開くことになるのです。
そんな重義、エピソードにはことかきませんでした。
負けず嫌い
「ベーゴマ」遊び。当時の子どもたちはこれに大熱中でした。重義少年も、この子どもながらの「真剣勝負」にのめり込みます。勝負に負けると自分のベーゴマを取られてしまいます。とにかく負けてなるものかと勝負強さを発揮し、とても強かったそうです。
後に重義は、社員の教育にあたり「勝負は負けてはいけない。商売でも負けてはいけない。」と常々説いていました。この負けず嫌いが自身の経営哲学の原点だったのかもしれません。
重義少年、ある時その勝負に負けてしまいます。さあ大変、負けた者は自分のベーゴマを差し出さなくてはなりません。悔しくて悔しくて、どうしてもそれが許せなかった重義少年は、取られてなるものかと、なんとそのベーゴマに自分のおしっこをかけて取られないようにしてしまったのです…!
手に負えない暴れん坊
近所に住んでいた議員さんが、ある年の選挙で違反を犯してしまいます。それを山賀家のせいにしようとしているということを聞いた重義少年、母親の制止も聞かず靴も履かないまま飛び出します。向かった先は、その議員さんの家。そしてなんと、その家の窓という窓に石を投げつけて割りまくってしまったのです。
両親に連れられてお詫びに行った重義少年、ひたすら頭を下げる両親の後ろで、「あっかんべー」をしていたのでした…!
志願兵として
そんな重義少年をみてきたお父さまは思いました。
「このままではろくな大人になれない…」
そして、なんと息子を軍隊へ志願させます。
かくして重義は「志願兵」として入隊することになりました。
開戦後は航空整備兵として満州へ渡り、一時帰国するもインドネシアで太平洋戦争の終戦を迎えます。ところが重義はなんとそのまま「インドネシア独立戦争」へ参加、帰国したのは終戦から1年経った後だったのです。
日本兵が続々と復員する中、重義は戻らなかったため、もう死んでしまったものと家族は諦めていました。
「この戦争は絶対に日本が負ける。殺されるのはごめんだ。」
実は重義、出征の際にこう思っていました。祖母も「絶対に死んではいけない、生きて帰って来なさい」と送り出したといいます。それにもかかわらず、終戦後も残留日本兵としてとどまり、インドネシアの解放・独立のための戦いに自ら身を投じたのは、困っている人を放ってはおけないという、強い正義感からだったのです。
帰国後にその話を聞いた家族はびっくり仰天してしまいます。家族にすればたまったものではありません…!とにかく無事に帰って来たことに心から安堵したのでした。
正義とやさしさの塊
その性格は大人になっても変わりません。
息子が運転する車で移動中のある時、すぐ前を走っていた車が自転車をはねてしまいます。
車はそのまま逃走…!
「追いかけろ!!」
それを見た重義は息子へ叫び、ひたすらその車を追いかけました。
ついに追い詰め、ようやく止まったその車に近寄った重義は、運転手へ向かって怒鳴りました。
「お前、いったい何をやっているんだ!!」
そのまま警察へ連れて行き、被害者にもきちんと謝らせました。悪いことは絶対に許さない、これもまた強い正義感からの行動でした。
被害者の元気な姿を見た重義は、「良かった良かった」と自分のように喜びました。
お礼の品を差し出された重義は、一旦受け取り「ありがとう、その気持ちは遠慮なくいただくよ。そしてこれは、私からの快気祝いだ。」と、その一旦受け取った品物をその方へ差し出したのでした。
あまり表には出しませんでしたが、重義はやさしさの塊でもあったのです。
異常なまでの勉強家
貧しさ故に勉強もままならず、小学校しか出ていなかったことに重義は引け目を感じていました。後に、接待の席などでそのことを馬鹿にされることも多々あったそうです。それが悔しくて悔しくて、絶対に見返してやるという思いをずっと持ち続けていました。
少しずつ経済的に余裕が出てきてからは、色々な本を買っては読み買っては読み、時間があれば勉強勉強と、とにかく学び続けました。いつしか自室は本の山で埋め尽くされていました。その努力は、地元の重鎮や経営者仲間、取引先や関係者の間で「山源のオヤジには一目置かなきゃいけないね」「あの人こそ総理大臣になるべきだ」と言われるまでにしたのです!
山源機械工具株式会社の誕生
1948(昭和23)年、重義は勤めていた安立電機株式会社(現 アンリツ株式会社)を退職、独立して山源商店を設立、開業します。26歳の時でした。
当初は事務所の家賃の支払いも満足にできず、電話も止められてしまう有様でした。それでも昼夜を問わず一所懸命に頑張っている姿に、「運」は味方をしてくれました。
朝鮮戦争による特需景気に助けられ、少しずつ商売が成り立つようになってきたのです。
朝鮮戦争に端を発した日本の好景気は、神武景気、岩戸景気、いざなぎ景気と続いていきます。
「もはや戦後ではない」「投資が投資を呼ぶ」「所得倍増計画」「東京オリンピック」…、時代も味方につけた重義は、飛ぶ鳥を落とす勢いで事業を拡大していきました。1957(昭和32)年に「有限会社山源商店」として法人化。
1965(昭和40)年には東京都国立市に「山源工機株式会社」を設立。
そして翌1966(昭和41)年7月、商号を「山源機械工具株式会社」へと変更しました。
山源機械工具株式会社の誕生です。
山源機械工具株式会社
その後も勢いは止まらず、業績は右肩上がり。当時資本金250万円でスタートした山源機械工具株式会社は、増資を重ね、ほんの数年のうちに2,000万円にまで増やしていきました。
時代とともに
1972(昭和42)年、念願の「山源ビル」が竣工します。
さらに1978(昭和53)年に第二山源ビルが竣工、1985(昭和60)年には東京都国立市に国立支店を開設します。その翌年から始まった「バブル景気」の恩恵も大いに受け、山源機械工具株式会社は東京屈指の会社へと成長していきました。
設立以来、まさに時代とともに成長していったのです。
ここまで成長できた要因は、会社設立直後に立て続けに押し寄せてきた好景気の波など、重義が時代に好かれた強運の持ち主であったことは間違いないでしょう。
しかし、強運は一所懸命に努力したところに宿るもの。これは偏に重義の努力の結果なのです。
異常なまでの勉強家であったこと、とにかくひたすら勉強し努力し続けてきたこと、加えて自身が味わった貧困経験を家族や社員には決してさせたくないという強い思い…、これらの結実なのです。
会社の儲けは社員に回せ
「社員が、東京で一番給料をもらえる会社にする」
これが重義のモットーでした。
会社を大きくすることよりも、とにかく社員がたくさんのお給料をもらえることを目指しました。会社の儲けはとにかくまず社員に還元していこう…自身が貧乏で苦しんだため、社員には決してそのような思いをさせたくない、そう考えてのことでした。
「会社の儲けは社員に回せ!」
常々幹部へ漏らしていた言葉でした。
友和会
ビジネスに限らず「人のつながり」はとても大切であることを早くから理解していた重義は、様々な会合にかかわることで、たくさんの人たちと交流を深めてきました。
無類のお酒好きだった重義はある時、懇意であった社長仲間たちと、とにかくただお酒を飲むための会を設立します。そこへ当時の区長や警察・消防署長、郵便局長、銀行や企業の理事長、社長らを参加させ、祝い事があれば皆を集めてお酒をふるまいました。
そんなことを繰り返しているうちに、参加者同士の結束を生み出していきました。
それは、仲間における互助の精神を生み出し、さらに地域も産業も共に成長発展していこうという理念を生み出します。
実は、これこそがこの会の設立の狙いだったのです。
その名も「友和会」。
延々とつながる縁…。ここには、今でもその精神がしっかりと受け継がれています。
重義の引退
獅子奮迅の活躍を続けてきた重義でしたが、年齢を重ねるにつれ、自分が元気なうちに息子に社長を継がせたいと考えるようになっていきました。
この年のお正月のこと。取引先へ年始の挨拶に行った帰り道、重義はふと、ハンドルを握る息子の洋一へ自身が体験してきた昔の苦労話を語り始めました。そして最後に「俺は社長を辞める」と言ったのです。突然のことでした。
洋一はあまりの突然にびっくりしましたが、それは父親のこと、言い出したら何を言っても聞かないことはよくわかっています。もはや腹をくくるしかありませんでした。
意図したタイミングであったのか、それとも閃きだったのか、もはや知る由もありません。
それにしても潔すぎる引き際でした。
お別れの会
2008(平成20)年12月19日。
おだやかに晴れたこの日、体調を崩して入院していた重義は、長きにわたる闘病生活から解放され、ついに遠い空へ旅立ちました。波乱万丈、86年の人生でした。
後日催された「お別れの会」には、それはそれは大勢の人たちが集まってくれました。驚いたのは、そのほとんどの方々が会の最後の最後まで帰ることなく、いつまでも重義の思い出話に花を咲かせていたのです。
「これは義理で来てくれた人たちではない。人望がなせたことだ。」
会を取り仕切った息子の洋一は、「父親」の偉大さを改めて思い知ったのでした。「いいか、俺が棺の中に入ったら、窯の中に入れられる前に必ず俺のほっぺたをつねるんだぞ」
父から息子への最後の教えでした。
洋一社長誕生
2004(平成16)年8月、息子の洋一が2代目社長として就任しました。
新しい山源機械工具株式会社のスタートです。
しかしその船出は苦労の連続でした。
まず、ガバナンスがうまく取れない。それもそのはず、自身にはまだ何の実績もないばかりか、社員たちはみんな自分よりも年上で、あの「暴れん坊」の薫陶を受けた強者ばかり。洋一の社長就任をやっかむ者さえおり、とにかくやりにくかったといいます。
しかしこちとら「暴れん坊」の直系、こんなことには負けません。
社内の逆風に耐えながらも、これからの経営方針を一所懸命に考えます。
出した答えは、自ら実践してきた「攻めの営業」。
「これまでは人にもお客様にも恵まれていた、時代にも助けられた」、それ故に「攻める」ことはそれほど必要がありませんでした。
洋一は「これまでの人間関係に頼るだけではなく、自分自身でもしっかりと切り開いていかなければいけない」と、父重義が築いてきたものを受け継ぎ生かしながら、「攻めの営業」を打ち出していったのです。
2代目 山賀洋一
山賀洋一は1951(昭和26)年1月17日、ふたり姉弟の長男として生まれました。
成城大学を卒業後、1973(昭和48)年、山源機械工具株式会社へ入社します。22歳の時でした。
富士通株式会社やスタンレー電気株式会社などを担当、その後千代田化工建設株式会社、東洋エンジニアリング株式会社、キヤノンアプテックス株式会社なども担当し、次々と新境地を開拓していきました。
発想が豊かでかなりのアイデアマンとして社内外で有名であった洋一は、自社製の「カラーコード識別機」の開発を手掛けたり、商品カタログのデザインやキャッチコピーまで自身で作成するほどでした。現在の山源機械工具株式会社の「ロゴ」を作成したのも洋一です。
ロゴ誕生秘話
台湾へ出張した時のこと。手違いがあり、洋一は用意された車にたまたま乗ることができず、ひとりホテルの部屋に残ることになってしまいました。
さて、どうするか…。
ふと始めたのが、会社ロゴの作成。
人との出会い、ニーズとの出会いを大切にするという信念を表現しました。
なぜこの時ロゴの作成などし始めたのか…、なぜ「ロゴ」だったのか…というのは本人でさえも謎ですが、もしあの時車に乗れていたら、このロゴは誕生していなかった…かも?!
「攻める」
ニクソンショックやオイルショックの影響で、塩ビ管が絶対的に不足していたこの時期。取引先がそれを手に入れることができずに困っていました。洋一は自ら東奔西走して探し回り、ついに扱っているお店を発見します。気難しい老夫婦が営んでいる小さな商店でした。洋一はそこへ通いつめ、心を通わせ、見事に品物を分けていただくことに成功します。取引先が大喜びだったのは言うまでもありません。
洋一は、これまでやってこなかった分野にも手を広げるべく、ひたすら勉強しました。担当していた富士通株式会社へも、分からないことを教えていただきに何度も足を運びました。最初は孤立無援であった洋一でしたが、そうしているうちに味方してくれる人がどんどん増えてきたのです。
当時富士通株式会社のあった浜松町から始まった洋一の「攻め」の姿勢は、やがてシンガポールでのプロジェクトを獲得することになります。
そしてそれを皮切りに、ナイジェリア、バングラディシュ、トリニダード・トバゴ、インドネシア、ブルネイ、ヨルダンなどでのプロジェクトを、次々と獲得していったのです。
洋一は「攻めの営業」を実践し、自身が目標としていた「海外進出」をも切り開いていったのでした。
海外での仕事を本格化するために貿易会社を設立してグループ会社化し、アメリカなど海外の工具類を積極的に輸入、販売しました。その力の入れようは、もともと取り扱っていた国産メーカーの方々から怒られてしまうほどでした。
期待には何としても応える
ある時、洋一が担当していたキヤノンアプテックス株式会社から相談を受けます。
「シンガポールで金型を作りたい」
当時、社内に金型のことを理解している社員はひとりもおりません。
しかし洋一はその期待に応えようと必死になって勉強し、渡された図面を持たせて現地へ調査に行かせます。
キヤノンアプテックス株式会社からは「エアーモールドをやりたい」と言われていました。
エアーモールド工法は当時の最新の技術で、それをできる企業はまだ数える程しかありません。調査に行った社員がシンガポール中を探しまわりましたが、見つけることはできませんでした。
もちろんここで諦める訳にはいきません。今度は洋一自身が台湾へ飛んで東奔西走、ついにその技術を持った企業を一社見つけることに成功します。明け方まで及んだ打合せで何とか説き伏せ、無事に請け負ってもらうことになりました。その後の段取りを現地の担当者に任せ、朗報を持ってすぐに帰国した洋一は、その足でキヤノンアプテックス株式会社のもとへ向かいます。
報告を受けた担当者は、洋一へ伝えました。
「1ヵ月で完成させて欲しい」
衝撃でした。通常3か月程度かかる内容のものをたった1ヵ月で完成させて欲しいとは…。
「もうやるっきゃない!」
洋一は腹をくくります。
何としても期待に応えようと覚悟を決めたのでした。すると今度は、予期せぬ出来事が洋一を襲います。あろうことか、現地で指揮を執っていた社員が不祥事を起こし、会社の信用を失墜させてしまったのです。このままではプロジェクトを続けるどころか会社の存続さえ危ぶまれてしまいます。
洋一は、すぐに自ら現地へ飛んで陣頭指揮を執りました。シンガポール、台湾、マレーシアを何度も行き来して、約1年、信用回復に努めながら何とかプロジェクトを軌道に乗せていったのです。金型製作だけであった当初の依頼は、やがて全ての工程を任される大きなプロジェクトへと大きく変貌を遂げていきました。これは、まさに 全幅の信頼を寄せていただいた証でした。
幾度となく訪れた困難、その度に
社員の強い結束と洋一のリーダーシップで乗り越えてきました。この経験は、洋一と社員との信頼関係をますます強固にし、
どんなに困難な状況でも諦めずに、会社一丸となって取り組んでいく社風を作り上げました。 すべては「期待に応える」ため、この社風は今でも山源機械工具株式会社に根付いています。
怒涛の時代を超えて
洋一の社長就任以来、山源機械工具株式会社は「攻めの営業」を続けてきました。海外への進出も果たしました。しかし、当初は社内からの反発もありました。無理なチャレンジと批判もありました。その度に洋一は社員ととことん話し合い、自ら身を持って行動してきました。まさに怒涛の日々でした。やがて、変化していく時代の流れに合わせるかのように、山源機械工具株式会社も変化していきます。
洋一は、再び国内へと目を向けます。これまで攻め続けてきた速度を緩め、取引先との関係をさらに深めていく戦略へとシフトしたのです。大きな決断でした。。
「果たして取引先にきちんと手が行き届いているだろうか…」
「しっかりと期待に応えられているだろうか…」
洋一の頭でそんな疑問が大きくなっていきました。
そこで、かかわってきた海外でのプラント建設ラッシュがひと段落したのを機に、大きく舵を切ったのです。
これまでのように何十億もの売り上げが一気に入る訳ではなくなりました。しかし、例えそれがどんなに小さな仕事であろうと全力で期待に応える…、この姿勢は取引先にしっかり届きました。
「山源に相談すれば何とかしてくれるのではないか」
そう思って相談してくださるお客様が格段に増えたことが、それを証明していました。これらの期待に全力で応える、そのひとつひとつの積み重ねが会社の売上を支えていくようになりました。
会社の規模もコンパクトにして小回りが利くように変化させ、ますます取引先への心配りができるようにしていきました。さらに、創業の地である目黒区への地域貢献や地域防災にも目を向けていきます。会社をここまで大きくさせてくれた目黒区に恩返しをしたい、そんな思いからでした。現在は機械工具事業を中心に、長年の実績と経験を活かしたソリューション事業や、生活関連の事業、地域応援事業など、コンパクトながらも多彩な事業でお客様の期待にお応えしています。
そして、未来へ…
2019年、新型コロナウイルスの感染拡大という未曽有の出来事は、全世界に多くの変革を余儀なくさせました。
日本でもソーシャルディスタンス、非接触・非対面、非移動、マスクの日常、在宅ワーク、おうち時間…
これまでの概念、価値観が大きく変革した中で、仕事の仕方や商売においてもさらなる変革を迫られていくことでしょう。
しかし私たち山源機械工具株式会社は、これを「進化」のチャンスと捉えます。
安心しておまかせいただけるような「この時代のお客さまとのつながり方」。
誰も想像できない未来…挑み続けることで、山源機械工具株式会社は常に「進化」を続けていくのです。情報技術の発達により、私たちの暮らしはとても便利になりました。
スマホさえあれば何でもできる時代。家に居ながらにして、世界の人とつながることができる時代です。
しかし、その便利さだけにフォーカスしていると、時に人の心の「あたたかさ」を忘れてしまうかもしれません。
時代の進化を享受して積極的に活用しながらも、私たち山源機械工具株式会社は、人の心のあたたかさをそれ以上に大切にしなくてはいけないと考えています。お客さまからのご依頼には、それぞれ様々な「思い」が込められています。その「思い」にお応えするため、時にはたとえ泥臭い仕事であってもみんなで一緒になって汗をかき、時には時代に合わせた最新の技術を以てスマート(賢く)にスピーディーに答えていく。
そのためにも、社員全員が「経営者」となり、素早いジャッジと行動で全ての仕事に取り組んでまいります。
「モノを売る」のではなく「信頼を集める」、この「商いの基本」を忠実に、人のために奉仕する。常に中心にあるのはお客さまの「思い」です。時代の変化とともに歩んできた山源機械工具株式会社。
これからの時代、どのように進化していくのか私たちも楽しみです。たとえどんな時代になろうとも、私たち山源機械工具株式会社は、これからも皆さまの「心」「思い」に寄り添って歩んでいきたい…。
社員一同、心からそう思っています。To the future…
これからの時代も、皆さまとともに。